協会員プロフィール

玉川 スミ
芸名
玉川 スミ
芸名ふりがな
たまがわ すみ
本名
中川 スミ
本名ふりがな
なかがわ すみ
生年月日
大正9年7月17日
逝去日
平成24年9月25日
出身地
福島県郡山
芸種
俗曲
階級
色物
芸歴
大正9年(1920年)7月 福島県郡山で生まれる。父虎太郎は明治大正にかけて一世を風靡した浪曲師、桃中軒雲右工門の高弟の一人で、桃中軒雲工と名乗る。母ハルは郡山の呉服屋の娘。
大正11年(1922年) 女流歌舞伎「市川牡丹一座」の支配人国友政芳が二人目の親、太夫元の地紙賢三郎が三人目の親となる。「ハツノ」から「澄子」へ改名。大阪興行に同行、芸名「中村文丸」と名乗る。オーストラリア、アラスカに海外公演
大正12年(1923年) 神田「三崎座」に出演中、曽我廼家五九郎劇団からの依頼で浅草「万世座」に特別出演し、喜劇界で初めての子役を演じる。北海道「旭川劇場」で1ヶ月の公演。
昭和2年(1927年) 芸名を「地紙家澄子」と改名 「お初地蔵劇団」として「お初地蔵」を演じる
昭和5年(1930年) 民謡の成田雲竹一座に買われる(当時雲竹の相方三味線が現在の高橋竹山)
昭和7年(1932年) 青森の民謡一座「津軽家すわ子一座」に買われる 桂喜代楽から漫才のイロハを教わる 三代目春風亭柳好から「桂小豆」の芸名を許される
昭和11年(1936年) 「花奴レビュー団」で「丘乃すみれ」という芸名で歌手として舞台に立つ 大朝家シゲオとコンビを組み漫才に転向
昭和12年(1937年) 「シゲオ・小豆」の「時局剣劇漫才」が大阪の「天王寺館」で大受けする 中川虎松の娘「中川スミ大正十年三月三日生まれ」として入籍
浅草「大東京」で一ヶ月の公演、ソ連国境へ慰問巡業。帰国後、名人会との合同巡業。
昭和13年(1938年) 叔父にあたる浪曲師、東家楽蒸の勧めで吉田奈良千代に入門 女楽蒸として浪曲師となる
昭和16年(1941年) 新興芸能部へ移籍 北支慰問に出発
昭和23年(1948年) 浪曲の京山華千代に引き取られる
昭和27年(1952年) 大江しげるとコンビを組み四年ぶりに有楽町ビデオホールの舞台に立つ玉川一郎先生の勧めで芸名を「玉川一恵」とする
昭和32年(1957年) 大阪コトブキ芸能社の依頼で三吉と女同士のコンビを組みハワイ巡業
昭和33年(1958年) 三味線漫談を一人で始める
昭和35年(1960年) 芸名を現在の「玉川スミ」と改名
昭和48年(1973年) 三船敏郎の「鬼平犯科帳」「忠臣蔵」(テレビドラマ)渡哲也の「日の当たる坂道」(映画)などに出演。
昭和52年(1977年) 高橋英樹の「桃太郎侍」(テレビドラマ)にレギュラー出演
昭和53年(1978年) 東芝レコードから「玉川スミ音盤独艶会」「都々逸教室」を発売
昭和54年(1979年) テイチクレコードから「ご同輩数え歌」「どんどん節」を発売
昭和55年(1980年) 「浅草国際劇場」で歌手として舞台に立つ
昭和57年(1982年)10月 「浅草公会堂」で「玉川スミ・リサイタル・チャリティショー」開催
平成3年(1991年)3月 宮崎県延岡市の今山大師で得度する 法名「澄光尼」
平成3年(1991年)10月 「浅草演芸ホール」で「玉川スミ芸能生活七十周年記念公演」開催
平成13年(2001年)11月 「国立演芸場」で「玉川スミ芸能生活八十周年記念公演」開催
受賞
昭和46年(1971年) 自らの創作「松づくし」で芸術祭優秀賞受賞
平成3年(1991年) 勲五等宝冠章授賞
平成14年(2002年)3月 春松屋芸能、特別賞受賞
コメント
幼くして浪曲一座の舞台に立ち、以来寄席色物芸人として多くのジャンルの芸を習得、その集成が2001年国立演芸劇場上席ににおいて「芸能生活八十周年」を謳い、獅子舞、浪曲、即席漫才、松づくしを披露。本芸の三味線漫談とともに長年培ってきた幅広い芸を演じた。大正・昭和・平成の三代にわたる活躍は貴重な軌跡ということができる。
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